秀光人形工房 (ひな人形、五月人形、日本人形)

本来は五月五日の子供の日当日ですが、その前の都合の良い日でもかまいません。みんなでお祝いする事が一番大事なのです。両家の両親やお祝いを頂いた方、親しくしている方々や、友人たちを招いて下さい。お祝いには菖蒲と柏もちやちまきが基本です。菖蒲は長ければ長い程良く、菖蒲酒や菖蒲湯にしても使います。当日のごちそうは鯉又は川の魚と山の幸をメインにちまきなどをふるまいます。菖蒲をひたしたお酒は、菖蒲酒として邪気を払うとされ縁起が良しとされています。お祝いのお返しは柏もちやお赤飯に赤ちゃんの写真を添えると喜ばれるでしょう。その際、「内祝い」としてお子様の名前で渡します。

端午の節句はひな祭りと同様に、一月の人日(正月七日)、三月の上巳(三月三日)、五月の端午(五月五日)、七月の七夕(七月七日)、九月の重陽(九月九日)の『五節句』の一つで、『端午』と言うのは月の始めの午の日の事です。普通は五月五日の事を差します。この五節句は中国から伝わり、日本でも深く信仰に根付いたものでした。中国では古来五月は陰の月として悪いとされ、午の日は特に嫌われました。そこでこの日を邪気を祓う特別な日としたようです。種を蒔く前の、農家にとってもその年の豊作を願う大事な日であったと言えます。古代、朝廷では『五日節会』(いつかのせちえ)と言って群臣は揃って菖蒲を頭に頂いて参内し、騎射の奉納をし、薬玉を賜ったとしています。菖蒲の葉を頭に巻きつけた様子が、『年中行事絵巻』にも描かれています。また、宮中では菖蒲で作ったお輿や小さな御殿をすえたり、蓬の人形を作って飾ったりしました。これが後に武者人形を飾る起源にもなります。一般家庭でもその後この風習を取り入れ、蓬で作った人形を門口にかけ、蓬の冠をかぶり、五色の糸をひじにかけ、蘭の湯を使い、菖蒲酒を飲んだと言う事です。いずれも病と厄災を祓い、邪気をはらうおまじないとされます。

端午の節句を男のこの節句と言うようになったのは、古くは朝廷の騎射の行事、中世の流鏑馬、印地打(いんじうち)と呼ばれる石合戦、くだって、凧揚げ、競漕、菖蒲打ちなど、勇壮な行事が行われるからで、武者人形も始めは疫病神を追い払うためでしたが、江戸時代の奉納甲冑の習慣と融合して、後には男の子の節句の象徴となっていきました。

端午の節句に華やかな飾り物をするようになったのは江戸時代になってからです。現在とほぼ同じような形になってきています。端午の節会は尚武の催しとして幕府の年中行事の中でもとりわけ重要視されていました。諸大名は江戸城にのぼり将軍に祝賀の辞を述べ、粽や柏餅を献上し、将軍家世継ぎ誕生の際には玄関に幟や招代(おぎしろ)を立てました。これが後の端午の節句飾りの始まりと言われています。江戸時代初期には武家のみにしか許されなかった招代の習慣(子供を守る為の風習)も、江戸時代中期を過ぎる頃には広く一般にも広まって行きました。吹流しや鯉のぼりなどの外飾りに加え、兜や鎧などの甲冑と武者人形をそれぞれ台に乗せ、小さな槍を枠に立てて飾りました。甲冑も神社に奉納する用途が主流になって来ていましたので、端午の節句飾りもこれに沿って年々華美になってきたようです。現在のような小さな甲冑を室内に飾るようになったのは江戸時代後期になる頃からです。力のある商人や農家なども武家に習って端午の節句を行うようになり、年々飾り物も豪華になっていきました。武者人形も甲冑も、始めは厄病神を追い払う為のものでしたが、後には男の子の節句の象徴にまでなりました。その後、端午の節句飾りは各地方によって様々な意味あいや違いを経て、現在の形に変化して来ました。基本的な部分は古代の頃より変わらない、親としての子供への愛情表現の一つと言えるでしょう。

古代、日本では子供が生まれると家の前に長い竿を立て、神様が天より、その竿をつたっておりてきて、子供を守ってくれると信じていました。そのうち、他の家より早く神様に目立つようにと、いろいろな色の布を先端に付けました。これが五色の吹流しの原型で、これを招代(おぎしろ)といいます。今でも神社、仏閣、で見受ける事が出来ます。又、古代中国では鯉が黄河の急流をのぼり、滝を飛翔すると龍に変化し出世する、と言い伝えられました。昇竜門と言う滝を登り、龍に変化する事から、我が子の出世と繁栄を祈って、鯉のぼりを招代(おぎしろ)に付け五月端午の節句に大空に泳がせました。江戸中期、江戸の庶民(町人)の間でも大流行したようです。

五月のお節句と言えば菖蒲のお花ですよね。菖蒲は五月五日には欠かせない植物です。手軽に入手出来る薬草で、香りが強く、邪気を祓うものとしてして広まっていました。また、武家では強く尊ばれる精神姿勢を表す『尚武』が『菖蒲』と通じる事から、特に端午の節句と組み合わされるようになって行きました。このお花は今ではどこのお花屋さんでも取り扱っていますので、簡単に入手する事が出来ると思います。五月五日の夜にはその菖蒲の葉をお風呂に入れて菖蒲湯にします。菖蒲湯につかると、その年一年間は無病息災でいられるとして大変珍重されていたようです。アヤメには大きめのお花が付きます。アヤメは陸上(乾燥した土壌)に咲くお花です。ショウブは沼地(水田状)に根を張ります。ショウブは大きくはお花を付けませんが、一般に見られる物は花ショウブと言います。花ショウブはアヤメ科ですが、ショウブはサトイモ科です。似ている所は葉っぱだけですが、容易に見分けるのは難しいかもしれません。見て楽しむのは花ショウブですが、ショウブ湯にするのは本来サトイモ科のショウブなのです。ショウブもアヤメも漢字は菖蒲ですが、本当は全く違う種類の植物なのです。漢字が当てられた頃の時代には、まだ違いがはっきりとわかっていなかったと思われます。ショウブはその根を漢方薬に使われるほど貴重な物ですが、その効能と共に『尚武』に通じる事から、武家の間ではとりわけ珍重されていたようです。また、ショウブを5月4日に軒先に飾ると『菖蒲葺』(しょうぶぶき)と言い、その家が火災を免れるとしてとても縁起が良いとされています。他にも各地方によって色々な風習が残っているようです。

武者人形の人気者として鐘馗様があります。この鐘馗様は元来、厄病除けのお守りとして飾られる人形です。昔は段飾りの両側に、神武天皇と共に飾っていました。

武者人形の中でも異色なのが神武天皇です。この神武天皇は元来、除けのお守りとして飾られる人形です。昔は段飾りの両側に、鐘馗様と共に飾っていました。

粽は端午の節句には欠かせない食べ物の一つですが、そのルーツは中国から伝えられたものとされています。中国でもその歴史は古く、3世紀頃の南北朝時代までさかのぼります。始めは水神様へのお供え物でしたが、後に泊羅(べきら)に投身した楚の屈原の伝説が結びつき、彼の命日とされる五月五日に、竹筒に納めたお米を、栴檀(せんだん)の葉で包み、色糸で結んで川に投ずる、と言う風に変化しました。中国では今でも、端午の節句や夏至には粽でお祝いしています。日本でも同じように端午の節句に食べる所が多く、お子さんの出生でお世話になった人や親戚などに贈って、お子さんの成長を一緒にお祝いして頂きます。日本の粽は、もち米を笹や茅(ちがや)等の葉で巻いて、井草で結び、蒸して食べます。基本的には六本で一束ですが、三本で一束の物もあります。

粽と共に端午の節句には欠かせないお菓子の一つです。餅を木の葉で包むという物は、平安時代の椿餅を始めとして古くから行われていましたが、柏の葉で包む柏餅が作られたのは江戸時代も始めの頃と言われています。小豆のあんこをお米の粉の団子の皮で包み、貝の形に似せて蒸篭で蒸します。前もって熱湯に通した柏の葉で包み、もう一度軽く蒸します。今では色々な形や種類の柏餅があり、みそ餡や草餅の皮もあります。