秀光人形工房 (ひな人形、五月人形、日本人形)

羽子板の歴史は7世紀頃から宮中で行われていた『毬杖(ぎっちょう)遊び』が起源とも言われています。これは先がへらのような形をした杖(毬杖)で毬(まり)を打ち合う遊びです。この杖が変化して羽子板になったと考えられています。これが鎌倉時代になると羽根つき遊びになって来ています。栄亨年間、当時のある宮様の日記の『看聞御記(かんもんぎょき)』の栄亨4年の正月の条に、宮中で女官などが男組と女組に分かれて羽根つきを行った事が記録されています。 また、同じ書物には、当時の足利将軍が年末に、宮中へ羽子板を贈った事も記録されています。

鎌倉時代の文安年間(1444年頃)の辞書『下学集』と言う書物には、羽子板と言う言葉が載っていて、『正月に之を用う」と註が有ります。羽子板は室町時代から『羽根つき』用の物と『飾り用』の物に分かれていきました。羽根つきを描いた桃山時代の絵によると、羽根をつく羽子板は板の上に梅の絵などを描いたり、左義長(宮中の正月の儀式で悪を追い払う行事)を描いたものでした。江戸時代の後期から、これに押絵と言う技法が確立し、歌舞伎役者の姿を表したりして一段と華麗さを増し、庶民の人気を集めるようになりました。 羽子板でつく羽根の先には玉が付いています。この玉は「むくろじ」と言う木の種です。『無患子』と書き、『子供が患わ無い』と言う意味として、子供のお守りとして大変珍重されています。 昔からの伝承によって諸々の邪気をはね(羽根)除けて、健やかに育つようにとの願いが込められている羽子板。これからも末永く飾っていただきたい、由緒ある日本の伝統の工芸品です。

道成寺

白拍子の花子が、道成寺の鐘供養に来て、寺僧に望まれて釣鐘の前で舞います。はじめは金冠をかぶり中啓をもって荘重に、あとは笠を持ったり、羯鼓を打つなどして華麗に舞い踊ります。

浅妻

浅妻の里の舟女をモデルにした江戸時代の画家、英一蝶の絵を舞踏化したものです。月夜の海に浮かぶ舟の中で鼓を打ちながら美しい白拍子姿で舞います。

汐汲

都に帰っていった在原行平を思い慕う海女の松風。海の水を汲む桶を肩にかけて踊ります。

まり飾り

女の子の初正月を祝う羽子板に添えられる錦糸で彩られた飾り鞠は、ただ華やかさを増すためではなく、丸く健やかに美しく育つようにとの願いが込められています。

藤娘

一面に咲き誇る藤の花、その精かと思われるような美しい娘が、藤の小枝をかざしながら姿をあらわします。やがて恋心のさまざまを踊りつづけます。